美しいということ

 

人は本来、男性も女性も美しい。
それは顔かたちがきれいというのとは違うの。

その人が本来もつ美しさが発露するということ。

わたしが人を美しいと感じるとき、
それは現実に何か良き事が起こった、例えば、うれしいことがあったとか、恋人ができた、とか、という、外側で起こっていることではなくて、自分の内側の小さな気づきや思い癖のひとつを手放せたり、
許可が増えたり、といった内面の変化が、より本来の自分を愛せるようになった結果なんだと思う。

じゃあ本来の自分って何?ってことだけど、

誰かにとっての都合の良い私や、誰かに愛されたいための私や、
誰かに気に入られたいための、評価をされたいための、そういう私ではない、今現在この瞬間の私のありようを、たとえ何かが足りなかったり、もっとこうなりたいと思っていたり、だめなところや嫌なところやそういうものをちゃんと見たうえでそれをそのまま、ありのまま、ちゃんと知っている私がそこにいるということ。

そういう私を私として愛すべき存在だと、ちゃんと自分が思えるようになるってこと。
生の私の性を許可できること。

不安や恐れはなくならないし、なくそうと思わなくていいんだと、
改めて思う。
たとえあってもそれとともに進める。

病気をもっていても幸せでいることはできるし、
シミがあっても楽しく生きることができるはずだ。

何かが手に入れられないから幸せになれないということはないのだ。
それがなくても幸せでいることはできる。

また、傷だらけの人生でも楽しむこともできるはずなんだ。

そのうえで、長年生きてきて染み付いた澱のようなものや、溜まっている感情のしこりや批判はできるだけできるだけ気づいてあげる。

愛って言葉以外の言葉がないけれど、
愛って言葉が嘘くさく聞こえやしないかと思って発するのをためらう。

でも愛なんだ

そこには愛しかないんだ。

愛があることに気づいたとき、
実は最初から愛しかなかったことに気づくとき、
色んなものが剥がれ落ちていく。

そうやってどんどんクリアになっていって、
それがその人本来の美しさを発するようになる。

そういうことに気づかせてくれるきっかけは算命学だった。

私は算命学にすごくすごく助けられてきた。

理解されないという悲しみ。
わかってほしいという切望
わかりたいという渇望

でも100%わかりあえるなんてことは幻想だ。

自分のことすら、自分がすべてをわかっているかと言えば、
複雑な自分を持て余すことさえある。
自分で自分をどうしていいかわからないときもある。

他人ならなおさらだ。

あの人はこういう人だとレッテルをはっていないだろうか?と自問する。

私は私を決めつけられるのも嫌だし、他人を決めつけることもしたくない。

人間っていうのはもっともっと複雑なものだから、ああ、〇〇型でしょう!というようにカテゴリー別に括られるのも好きじゃない。

そうやってジャッジされるのも嫌だ。

だからね、算命学もそういうふうに使うとすごく人を限定してしまう。

あくまでも指針、物差しのひとつにすぎない。

やみくもに信じるのではなく、活用してもらいたい!

完璧な、それさえやれば他はいらないなんていう完全なものは世の中に存在していないと思う。
どれも不完全だからこそ、お互いがお互いを補い合える。
そういう補完関係は人間関係でも大いにある。

完璧じゃない自分を受け入れてくれている宇宙のなかで
人の失敗や不完全さを馬鹿にしたり、笑ったりできるだろうか?
できるはずもない。

だから愛がある。

愛がすべてを丸い地球のようにしてくれたのではないかと思う。

いびつな形同士もいくつかどんどんくっついていけば、お互いの足りないところを補いあいながら、理解しながら、やがてひとつの丸い地球になっていく。

そんなことを学べたのも算命学だからこそ。

だからね本気で取り組んでいるのです。

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