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秘仏について

去る日、京都に行く機会を得た折に、丹後まで足をのばして如意寺まで。
50年ぶりのご開帳となっていたご本尊の秘仏「薬師如来像」と、
快慶作の地蔵菩薩像を拝観した。

そして六波羅蜜寺で12年に一度、辰の年にだけご開帳される
秘仏であるご本尊「十一面観音菩薩さま」
11月3日から12月5日までご開帳中。
日帰りで京都の六波羅蜜寺さんに参じた。
ずっと春から待ちわびていたのだ。

ゆえあって非公開とされている仏像を「秘仏」という。
そのお姿を見せてくださる機会がときおり訪れる。
ふだん、秘仏と参拝者の間にあって視界を遮断しているお厨子の「扉」や「帳」を開くことから、「ご開帳」とか「ご開扉」と呼んでいる。
ご開帳のタイミングも何十年にもわたるものから、毎月の縁日に開かれるものまでさまざまだ。

最近は博物館で仏像を「観る」ことができる機会が増えている。
しかもとても貴重な仏像が一同に会することも多く、そういった展示では
より近くで、より細部まで、はっきりと「観る」ことができる。
時折、もっとはっきりと細部まで見ようと双眼鏡で観ている方もいらっしゃる。
お厨子の中にいらっしゃるときには「観る」ことができないような、
違う角度から見ることができるし、360度ぐるりとじっくり見る事ができる展示も増えて、実際にわたしもそれを楽しんできた。
最近足を運んだ、東博での神護寺展は展示として素晴らしかったと思う。

だけど、今回、六波羅蜜寺さんで秘仏とお会いできたとき、
博物館で『観る』仏像と、 お寺の(本来の家)の中にいらっしゃる仏さまに
『会う』のには大きな違いがあるなあ、としみじみ感じた。

博物館で展示される仏像は、信仰という場にはいらっしゃらない。
あくまで歴史とか美術的、造形的な資料や作品としてそこにある意味合いが強いように思う。
もちろん、そうとはいっても、仏像を前にしたとき、おもわず手を合わせたくなってしまう気持ちはある。
 
けれども、お寺のお堂で仏さまに「会う」ということには、かなわないのだ。


薄暗いお堂の奥で、
お厨子のなかで、
仏さまは
静かに
わたしたち訪れる人(会いに行く人)を
『待っている』

薄暗い中、
遠目で、
お厨子の扉は開かれたけれど、その上部に隠れて頭の上のほうまではよく見えない。
お焼香の順番はあっという間の、まさに、瞬間で、
格子の隙間から張り付くようにそのお姿を見て名残を惜しんだ。

想像以上におおきな仏さま(262センチ)で、厚みがあって、重量感があるけれど、なごやかで穏やかな丸みも感じる。
優しいまなざし。

もっとよくみたい!!
はっきり、くっきりさせたい。
なにもかも明確にしたい。わかりたい。

と思う心がある。

でもその一方で、

わからないことをわからないままに、
頭の理解を急がずに、そのことに身を委ねてきたからこそ、
真の理解がやってくるのだということも経験してわかるようになった。

わからないことを無理にわかろうとしなくていい
曖昧なお姿は曖昧なままでいい

今回のご開帳に参じたわたしと
待っていてくださった仏さまがいる


その出会い以上になにがいるのか、なにもいらない。

それこそが最高に幸せな時間だったな~と
つくづくと感じた1日でした。

<お知らせ>
現在募集中の2025年算命学イヤーリーディングについて
これから申し込みをされる方は12月26日以降の鑑定となります。
12月26日以降の日程で
①対面かzoomか
②ご希望の日程と午前か午後かを第3希望まで
お知らせください。


 




 


田中一村さん考察


田中一村展~奄美の光 魂の絵画~を見てきました。

300点にも及ぶ大回顧展です。


わずか6~7歳で絵の才能を発揮し、神童と呼ばれるも幾たびもの苦難に見舞われ、金銭的にも苦労が続きます。
それでも表現することをやめず、あきらめず、納得いく絵を描くために挑戦し続けます。
光と影の描写がほんとうに素晴らしかったので、
田中一村さんはどのような人なんだろう、と、ひもといてみたくなりました。

算命学で考察してみました。

<田中一村考察>

宿命に納音をお持ちの方。
今回はこの納音の宿命を主に考察します。

納音というのは、真逆を自分の中に所有していることになります。

たとえば、

大胆さや豪放さの裏には小心さや繊細さがあり、
非常に冷静で理性的な眼と情熱の塊のような心を持ち
非常に明るく社交的な面と、ひとり閉じこもり他者を寄せ付けないような孤独
どこまでも優しく、どこまでも厳しい
表に出たい自分と隠れていたい自分
正義と悪

というように・・・

常に自分の内側で
まるで火と水がせめぎあっているかのような葛藤をかかえます。

光と影、そのバランスが難しい・・・

しかし、表現者としては、観たものの光の部分だけでなく、裏側に隠れて秘した部分をも同時に描くことができるので、そのものが持つ光や美しさなどがより鮮明に際立つことになります。
ものや人の外面的な部分だけでなく、本質にたどりつくことができ、内面性や隠れた部分、秘されたものがわかるので、それをを表現できるのです。
あるいは、裏と表、光と影を描かせたら、納音がない人よりももっと的確に繊細に表現ができる、とも言えるでしょう。

チョット話は脱線しますが、
スタンダールやヘルマンヘッセという作家をご存じでしょうか?
スタンダールには「赤と黒」という代表作がありますが、自分の出世のために軍人と僧侶という真逆の仕事をもったがゆえに破滅していくという話です。
ヘッセには「デミアン」や「荒野の狼」「知と愛」などの作品があり、どれも人間の二面性を描いています。
カミュの「異邦人」もそうですね。
みな納音の宿命の持ち主。
そういう世界を描かせたら納音のある人にかなわないのです。

また、パスツールやアインシュタイン、エジソンも納音の宿命なんです!!
それまでの社会(世の中)の間違いを正す、ひっくり返すことができるのです。
だれも思いつかないようなことができたり、考えられたり、描けたり、、、いわゆる、天才!になれる(可能性のある)人たちなんですね。

もしかしたら、今読んでくださっているあなた!にも納音があるかもしれませんよ。
活かしていますか?(宿命にあるものは活かさないとね^^)

一村の絵には、
自然の本質を捉えようとして、ひたすらに表現を追求している姿があり、
見つめる眼の鋭さ、冷静さ、緻密さ←水の質と、

まっすぐに自己を表現しようとしてほとばしる情熱←火の質が
わたしたちの胸の深いところをつかんで離さないのだと思うのです。

大胆な構図に繊細な筆づかい、
荒々しさや力強さと同時にとても優しくあたたかい目線。
まさに納音そのものです。


一村が応募したふたつの作品のうち、ひとつ(秋晴れ)は落選し、
もう一つは入選。(ここでも光と影)
けれど、秋晴れが落選したことに納得できず、せっかくのもう一つの入選を辞退してしまう。(そのもう一つの入選した作品は行方知れずとありました・・・)
また別の時には、落選した作品を棄ててしまうことも。

一村の持つ宿命の星の中には
少年のようにピュアな自尊心の持ち主、という星もありますから、
自尊心、自負心が許さなかったのでしょう。

次のようなエピソードのある作品もありました。
7歳のときに描いた墨画に父親が筆を加えたことが気に入らず、
その部分を破いたために補修してあるのです。(笑´∀`)

自身の人生にも光と影が常につきまとっていました。

神童と呼ばれるほどの才能を6歳から発揮した一村。
ちょうど6歳から始まる10年ごとの大きな運の流れは、
6歳から25歳までの大運天中殺。
画家として、鮮烈なデビューを果たし、一気にその才能を花開かせたかのように思えますが、27歳ころまでに次々と家族を亡くし、援助者を失っていきます。(光と影)
その後の不遇の時代へ。

人生の流れが変わるのは46歳から

50歳で住み慣れた千葉を離れ,独り奄美へと移ります。
0(ゼロ)からの出発のようなところです。

織物工場で染色工として働き、お金を貯め、生活を切り詰め、
奄美の大自然の生命力あふれる植物や虫、鳥たちを、海を、空を、光を
ただひたすらに、一途に、描き続けます。


暗い茂みのその暗さも丁寧に描きこまれているからこそ、
その隙間から見える光が神々しいまでに輝きを放つのだと思いました。


どんなちいさな作品にも、どんな頼まれ仕事にも手を抜くことがない、
絵に対するひたむきさが胸をうちます。(一村のもつ星の特徴のひとつです)

「アダンの海辺」

納得できる作品を描けたと自負し、手紙にこのように書いていました。

「これは100万円でも売れません。
これはわたしの命を削った絵で、閻魔大王への土産品なのだから」と。

手紙ではこうも語っていました。
「サインをするのに5秒もかかりはしないけれど、そのサインさえも最後にいれることができないほどにすべてのエネルギーを注ぎきって、もう余力は残っていなかった」と。
そういう仕事の仕方はまさに命を削った、わけですが、
そこまでに命さえも捧げられるものに出逢った一村は別の意味で幸せなことだとも思います。(算命学では世間や一般常識的なことにあてはめて幸、不幸を論じることはありません。その人にとってなにが幸せか、は人それぞれ違う物差しだからです。)


ひたすらに純粋で、狂おしいほどに一途に、描くことへの情熱があふれ出していて、それが奄美の大自然の命そのもののチカラとなり、みるわたしを勇気づけてくれるのだと思いました。
そこには一村が一生を捧げて独学で追い求めてきた技術力や観察眼が本質を描きだすことのできる確かなチカラとなっているのですね。


我が人生の最後まで絵を描き続けられたこと。
感謝はとても言葉では尽くせない。
ありがとうございました。』


と一村は書状に書いていました。

これだけのものを只ひたすらに描き続けたのに、
生前評価されることはほとんどなかった一村。
画材を買うお金にも窮していました。(光と影)
没後、このように脚光を浴びていること、どのように思っているでしょうか・・・

社会の評価なんて所詮社会事じゃないか、とわたしの本質の部分では思うのですが、やはり、できることなら生前に報われて欲しかった!
せつない思いもよぎります。人間だもの。

未完となった絵はなにを伝えようとしていたのでしょうか。

この展覧会の前日まで初めての作品が見つかり続けたようです。
個人蔵の作品もたくさんありましたから、展覧会にあたり、多くの方々がご協力くださったんだな~と、みなさまの思いにも胸を熱くしました。

素晴らしい展覧会でした。

最後まで読んでくださったみなさまも、
お付き合いくださりありがとうございました♡








冬の旅を聴いて

去る11月2日、
 マリア·ジョアン·ピリス(ピアノ)と
 マティアス·ゲルネ(バリトン)の「冬の旅」(シューベルト)を
サントリーホールで聴きました。

帰宅して、お風呂にはいって、真夜中なのに、眠れない。
じわじわじわじわと奥の方に沁みてきて響いてきて胸が熱くなる。

真夜中にFBに防備録としてあげたものです。


防備録

冬の旅は、暗くて好きじゃないと言う声をよく聞く。
失恋した若者が絶望してさすらいの旅を続けていくという内容だから、全体を通じて、暗く絶望的な雰囲気に包まれた音楽だという認識はわたしにもあった。

けれど、
2人の冬の旅は、まるで違って聴こえた。繊細で美しいピリスのピアノ。
ゲルネのバリトンは、ピリスの繊細な音を壊さない。
とても甘く優しく、ときに切ない。ゲルネはピリスのために歌い、ピリスもゲルネのために奏でているようにさえ感じられる。
まるで鳥たちが愛を交わし合って歌っているかのように 

歌曲のピアノは伴奏とか、脇役という位置づけになるのかもしれないけれど、
ピリスの演奏は決して伴奏でも、脇役でもない。

どちらか一方だけが主役なのではなく、
陰になり、陽になり、また陽になり、陰になり
二人の間に魂の火花が散っているかのように思える。

愛は相手に迎合するわけじゃない。
最大の信頼とリスペクトを持った上で、突然噛みつくこともあるだろう。
ゲルネが歌い、ピリスが奏で、
私達が聴く。
外は雨

あの時間と空間の縦と横が織りなした
ほんとうに「一夜限りの愛の旅」だとおもえた。


出逢えてほんとうに良かった

会場はスタンディングオベーションに包まれた。

思わず、帰りの電車から感動を魂の友に伝えると
「愛賀真琴さんの愛はどんなふうに振動しているのでしょう」と返答が来た。
また別の友は「瞑想と音楽って、とても通ずるものがあるような気がするなあ」と言う。

わたしのなかで、ゆっくりと発酵させたい。

会場のあちこちで一緒に感動の時間を過ごした友たち
一緒には聴かなかったけれど、胸の高鳴りを聞いてくれた友たち

ありがとう♡

人生の岐路に立ったときの選択の基準その②~算命学より

こんにちは

真琴です。

前回の続きになります。
イヤーリーディングに時間をとられて前回の①から一ヶ月半も経ってしまいました(^^;)
待っていてくださった方がいらしたらごめんなさいね~~~

人生の岐路に立ったときの選択の基準その①を読んでいない方はこちらからどうぞ↓
https://aigamakoto.com/main/2023/12/06/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%B2%90%E8%B7%AF%E3%81%AB%E7%AB%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%BA%96%e3%80%80%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%B8%80



前回、持って生まれた宿命の氣を数字にしましたね。

与えられた点数をどのように消化して生きていくと良いのかを知るためには
五徳(福・寿・禄・官・印)の考えを用います。


福とは・・自分の精神的満足感や幸福感
寿とは・・健康
禄とは・・財
官とは・・名誉
印とは・・智恵・判断力


を意味します。

例を挙げてみましょうね。

一番点数が高いものがで、一番点数が低いものがの場合。

まずまっさきに優先するのは「官」です。

「官」を優先して生きていきなさい。という意味になります。

それは

ほかの五徳を脇においても、
自分の名誉を高めることを優先した生き方をしなさい、ということです。

自分の名誉を高めることを優先した生き方ってどんな生き方?と思いますよね。

それは、

ちょっとぐらい身体の具合が悪くても、あ~気分が乗らないな~と思っても、
「仕事」(やるべきこと)を優先することが大事だということです。

通常、名誉は仕事(自分がやるべきこと)で得られるものだからです。

たとえば、
自分が興味があろうとなかろうと、
相手が気に食わない人であろうと、
相手(たとえば、取引先のお客様)と面会する、
会合に出席する、というように、

名誉(やるべきこと、役目)を優先して生きていると、
自然と他の五徳も消化できることになるのです。

一番点数の高いものの次に重要なのは、一番低い点数の五徳です。
最も点数の低いものを最も後回しにすることが大事になります。

福が一番点数が低いにもかかわらず
自分の満足感を優先して、
やれ、ゲームだ、パチンコだと、
楽しいこと、面白いことを優先した生き方をして、やるべきこと(点数の高い官=仕事)を後回しにしていると、

結果的に最も不幸で、最も不満足な人生となってしまう、と算命学では考えています。

では、

福が一番点数が高い人はパチンコやゲームをして毎日遊んでいればいいのでしょうか?

「福」の点数の高かったみなさま!!

残念ながらそうではありません。

福が一番ということは、
ほんとうに自分がやりたいことを自分の力で確立させなさい
、ということなのです。

やりたいことが出来る人生を自分の力で作り上げなさい、ということで、
ただ単に、やるべきこともやらずに遊んでいればいいという意味ではないのですね(..;)

では、

禄が一番点数が高い人はどうでしょうか?

生徒さんが、禄の点数が高いので、わたしはお金に執着してもいいのでしょうか?と言っていましたが、そうではありません。

禄は財ですが、財ができあがるためには
親切でやさしい特徴を活かして、ビジネスチャンスをものにしたり、
堅実にコツコツと努力することで人の信頼を勝ち得た結果、財に繋がっていくのです。
逆にお金に執着すると裏目にでます。

地位かお給料かでどちらの仕事に決めようか、と迷ったときには、
禄の数値が高いのであれば、迷うことなく給料の高い方を選んでいいです!!

寿が一番の人は、子育てを一生懸命やったり、目下の面倒をみたり、人のお世話をしたり、何かを教えたり、伝えたり、というように伝達本能を活かすことを優先するといいですね。

印が一番の人であれば、勉強することは良いことではありますが、
只単純に勉強さえしていればいいということではないのが鍵です。

たとえ遠くても、逢いたい先生には会いにでかけたり、
たとえ雪が降ろうと嵐であろうと長靴はいて、傘をさして、勉強の場にいくこと。(安易に休まない)
高くても読みたい本は買うとか、
仕事やアルバイトを選ぶとき、自分の知的好奇心を満たすのはどちらか?を優先して選ぶといいですよ。
間違っても給料や名誉で選ぶべきではありません。

印を優先すると、宿命が伸びて成功していくのですが、ほかの五徳を優先すると、行き詰まってしまうことになります。

自分の点数の高いもの、低いものを頭に入れておいて、人生の岐路にたったとき、選択肢の基準にできるといいですね!

あなたの一番高い点数と一番低い点数はどの五徳でしょうか。
気になりますね^^

算命学をお勉強中のかたは一番高い点数の五行を気図と八門で比較してみると
自分に与えられた環境と生き方の関係性についても面白いほど良くわかりますよ。

何か参考にできることがあればヾ(^v^)kです

②は五徳の考え方がはいってくるので、一般のかたはちょっとわかりにくかったかもしれませんね。。。

ではまたね^^






算命学「鑑定の心得」から思うこと

17年ほど前になります。

算命学を学びはじめて4年くらいたったときでしょうか・・・

「鑑定の心得」なるものを学びました。

いくつかある心得のなかで特に印象深く心に残ったことがありました。

それは

間違った鑑定をすると、返り矢を受ける というものでした。

人間は天(自然)が求めた役目を生きるために生まれてきたのに、
その天(自然)が求めた役目から外れた生き方をさせるようなことを言う(占う)と天(自然)から罰(返り矢)を受ける。というのです。

か、返り矢って、一体どんな罰?

と、思いました。

師曰く、

① 宿命通り生きにくくなる(つまり、生き辛くなる)
② 返り矢が子孫に間者の因縁を残す。
  間違った鑑定を繰り返せば、そのたまった矢が子孫に残り、子や孫が
  他人から人生を曲げられるような運命に逢う。

自分が人の人生を曲げてしまったら、
自分や自分の子孫が同じような目に遭うのは因果応報の法則だ、というのです。

そして、さらに師は続けました。

誰も、故意に人の人生を曲げようとはしないでしょう。
少なくともそんなことを思って鑑定はしないでしょう。
その人のことを考えて、その人のために正しいことを言おうとするでしょう。
たとえ悪気はなくても、です。
自分ではそれが正しいと思って言ったとしても、それが間違っていたなら
返り矢を受けますよ。
その人の宿命に沿った生き方を勧めること。
自然の法則にかなった生き方を勧めることが大切なのですよ。

そのときはショックでした。

算命学を仕事にしようと思って学び始めたわけではなかったので、
自分が他の人を鑑定するということは、そのときは全く考えてもいなかったけれど、

たとえ、仕事ではなくても
自分が言ったことで誰かの人生を曲げてしまうようなことがあったとして、
その責任を自分が負うのはわかる。
けれど、それが関係のない子どもや孫の人生を曲げることになるなんて、そんなことは許されないだろうと思ったのです。

どんなに心を尽くしたとしても、
自分の力量が足りずに間違ったり、
あるいは、思い違い、考え違いをしてしまうことはないとはいいきれない。
むしろ、誰にでも間違いはおこる。

算命学は厳しいことを言うなあ。と思いました。

同時に

とても、感動していました。

なぜ感動したかというと、

ある程度の勉強を重ねてきて、
人を鑑定するレベルに到達しようという人たちに向けて、
あるいは、それを仕事にしようと考えているかもしれない人たちに向けて
この話はされます。

これを聞いて、辞めていく方たちも少なからずいました。
あるいは、わたしは趣味でいいわ、という声も聞かれました。

算命学に限らず、
他の星占いにしても
チャネリングにしても
そういう類いの仕事だけでなく、
人の人生や命に関わる職業についている人たちは、
この、返り矢の可能性があります。

罪を犯していない人を罪人にしてしまったり、
罪ある人の弁護をして、無罪にしてしまったり、罪を軽くしたり、
間違った病気を診断したり、、、 すれば、
たとえ悪意はなくても、その人の人生を曲げてしまうことになります。

ほかの占いの教室や
チャネリングといわれるような手法や
あるいは、ひとを裁いたり、弁護したりするようなお仕事のジャンルにおいて、このような「心得」を聞くことがあるかどうかは知らないけれど、

わたしは、こういう話をちゃんと心得として、
すべての学ぶ人に向けて伝える算命学の考えや姿勢にとても信頼を持ったのです。
聞けて、知れて、良かった!と心から思いました。
知るということは、人を謙虚にすると思うのです。

そしてこのあと

わたしは、

当初は全くもって考えてもいなかった道へ足を踏み入れていくことになったのですが、

この心得を何度も何度も、考えて、考えて、
ほんとうに覚悟を持てるのか、自問自答しました。
自分の覚悟だけでなく、自分の先に繋がるものへ責任を持てるのかということも含めて、です。

そして決めたのは

この道を歩いている間、この心得を絶対に忘れまい、ということ。

そして、誤解を恐れずに言うならば、

人というのは、わたしごときの言葉で自分の人生を曲げられてしまうような、そんな弱い、力のないものじゃなくて、どの人も素晴らしい力があるって信じているから、私はその力を引き出せるようなサポートを、ツールとして、算命学や風水を使ってさせてもらっているにすぎないということ。

私たちは、

この地球に生まれてきたというだけで

他の人が生まれてくる可能性を奪って、

母の子宮を10ヶ月もの間独占してきた、ものすごい幸運の持ち主なんですよね。

それってすごい!!ことですよね。

そう思いませんか?