執着について~色々思うこと

20140812212347

前のブログでね、執着についてちらっと書いたのですが、

みなさんは、執着という言葉に対して、
何かとても悪いイメージを持ってはいませんか?

私はね、いつの間にか、執着は悪いもので、手放すべきもの
というふうに、実は勝手に思い込んでいたんだな~ということに気づくことが、あったのです。

執着という言葉について改めて調べてみました。

ある物事に強く心がひかれること。
心がとらわれて,思いきれないこと。
一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。

というように書いてあります。

仏教では、主に悪い意味でつかわれ、修行の妨げになる心の働きだとしているようですが、

語源を探ってみると、

サンスクリット原語は、abhinivezaの他に、saktiāsakti(没頭する事)、parigraha(摂取、所有)など良い意味でも使われる語が同時に執着の意味を持ち、grāha(にぎる、理解)、adhyavasāya(決知、判断)など認識にも関わる語が執着の意味で用いられる。

ともありました。

英語ではattachmentですが、

ものごとすべてに良し悪しはない、という視点で考えれば、

執着にも良し悪しはないわけですよね。

けれど、

執着に良し悪しをつけることで、執着という言葉の意味を超えて執着以上のものになってしまう~ということなんです。

執着はただ、エネルギーを保管する方法にすぎない。(摂取、所有、にぎる、判断する)
けれど、そこに良し悪しをつけるとエネルギーが別物に変化してしまうってことなんですね。

私にとっての執着という日本語の意味が、執着は悪いもの、
手放すもの、という良し悪しをつけた解釈を含んだものになってしまっていたんですね。

執着=悪いもの=手放さなくてはいけないという図式ができあがってしまっていたんです。いつの間にか・・・

それはどうしてかな~って考えると、

こうして執着の意味を自分で調べて、自分で納得して得た答えではなく、
誰かが、どこかのスピリチュアリストかもしれません、あるいは読んだ本の中で
執着を手放して楽に生きましょう!
執着すると辛いですよ!
その執着が今の現実を引き寄せているんです・・とかね、

そういう言葉をそのままうのみにしたから起きたことかもしれないな~と 思ったんです。
実際に私自身もそういう言葉を自分のワークの中で使っていました。

でも果たしてその言葉は私にとってほんとうに嘘のない、真実の言葉だったんだろうか?と考えるきっかけを週末のKan.師匠の「無極舞」というワークの中で思いました。

これはその前の2日間の瞑想セミナーで二極を超えていきるということをさまざまに悉曇や、ドラゴンティーチングで見ていた時に出てきた私の中で生まれた感覚でもあったのですが・・・

もちろん、執着を手放すと・・という言葉の中に真実もあるでしょうし、その誰かが言ったこと、あるいは本に書かれてあったことは、ちゃんと執着の意味を良し悪しをつけずに説明していたかもしれません。ただその時の私がそれを受け取れていなかったのかもしれません。

何が言いたいかというと、

自分に主体があったわけではなく、誰かの意見や誰かの言葉に
ただ明け渡していたことから起きたことなのかもしれないってことです。
だから、この私が書いていることだって、ちゃんと自分に主体をおいて
読まないといけないわけですがね。(笑)
物事の一部しか見ていない、ことや
普段使い慣れている、あるいは自分の思い癖のまま
生きていると

その奥にある真実や尊いものに触れることなく、知ることなく
人生が終わってしまうな~と、
それは嫌だな~と思ったんですね。

何十年も生きてきているとですね、

本来の意味や本質ではない、何かを自分勝手に思い込んでいたり、解釈していたり、というようなことたくさん身に着けてしまっているんだな~ということも感じた週末でした。

その人の一部だけをみてその人はこういう人だとジャッジしていたり、
もちろん自分自身に対してたくさんそうしているのだけれど、

もっといろんな可能性があるのに、その一部しか使っていない。

感情も思考も一部だけ。ちょっとだけしか使っていない。

ココロだけでなく、カラダも同じ。

自分が普段使い慣れているところばかりを使っているしね。
右手ばかりを使って、左手の可能性を封じ込めているってことだって
ありますよね?

この子はこういう子だから、これは得意じゃないからと自分の子供に対しても決めつけてしまっていることもあるかもしれません。

自分の癖をはずすということ、
無意識のうちにしてしまう反応の仕方やパターンのようなもの、
そういう色眼鏡を外してものごとも、人も、世の中も、自分のことも
素晴らしく尊い存在なんだということをちゃんと、ちゃんと知っていきたいな、見ていきたいな、感じていきたいな、と思います。

そして奥の奥の奥にある私そのものに目覚めていきたいと
あらためて強く強く思った週末でもありました。

私は今、真言宗の阿闍梨であり、キャッスル・イン・ザ・スカイの主宰者であるビル・エディソン師とアナ原田師から学ぶ瞑想を通じて、二極の世界に生きながら二極を超えて生きるということはどういうことかを探求しています。初めてライトボディの覚醒の瞑想でお二人に師事して早10年以上が経ちました。

またクンルンネイゴンのマスター、マックスクリスチャンセン師や
Kan.師から学ぶことで、
自分の中の真実に辿り着きたいと思い、その意味での「行」をしているわけですが、

そういう偉大なマスターたちから直接学ぶことができるという悦びをかみしめた週末でもありました。

こうして死ぬまで学び続けること、その中で得たものを自分のものとして、自分の言葉で伝えていくこと。が私がしたいことなんだ
つくづく思うし、
算命学も、チベットヨーガも、探究者としての私がそこを手掛かりに
ココロとカラダの仕組みを学び、伝えていく、私にとってのツールのひとつなんだと思うのです。

いつだったか、個人セッションの感想をいただいたときに、
「淡々とまるで大学の講義を聞くような・・」ということがあったのですが、(笑)
算命学はわたしにとっては、どうしたらいいですかに答える占いではなく、学問であり、哲学なんです。

だから答えを求めていらっしゃる方には向いていません。

自分を知るツールではありますが、
知るだけでは片手落ちで、知ってどう生かすか、知ってどう自分を世の中に役立てるかを考えてもらうことが一番したいことなんですね

誰もが、生きているということ、自分を生きているということで必ず誰かの役に立っているのですから。

でもそれは私が答えることではなく、自分がすることです。
私はただそのための手がかりのようなものをお伝えするにすぎません。

もちろん、進むべき時やそうではない時は誰にでもあるし、そのことや
宿命(ブループリント)だけでなく、どう生きたか、どう行動したかが深く関わるのでそのあたりのことは可能性としてお話はします。

けれど、最終的には

私たちは生まれてきたからには自分を役立てないと!!です。
自分を役立てたいとおもって、すべての人が生れてきたのですから。

だからこそ、すべての人に役割があるのだと算命学ではお伝えしています。

そして役立たせるためにたいせつな自分の身体は自分で養っていくのです。
医者任せにせず、サプリ任せにせず、自分の身体を知って、役立てる自分の健康を守るために。

カラダをおろそかにせず、大切に扱い、自分の身体に入る食べ物も呼吸も、身を置く環境もすべてが大切なんですね。
(なので環境に影響を与える風水までもが学びの範疇に入ってきたわけですが・・(笑))
それは自分自身を大切な存在としてちゃんと尊重するということに繋がります。自分自身をリスペクトできるということは、自分以外のものもリスペクトできるということに繋がります。

けれど私たちは自分にとって大切なもの=宝を見つけるとそれを保持したくなります。手放したくなくなりますね。
そこに、いわゆる執着が生まれます。
何かに固執する執着は自分自身のエネルギーを奪います。
だからたくさんの執着があればあるほどエネルギーを奪われることにもなるのですね。

けれど、保管するのは執着ではないはず。

永遠に失われないもの、手放すとか手放さないとかもないもの、
最初からそこにすでにあって存在していたもの、
だから
失うという恐れさえもない。
そういうものに出逢っていく毎日を生きる。
そういう瞬間瞬間を生きていくということ。
そこに思いいたるということ、
そんな日常を味わうことをしたいな。

私もようやくちゃんとちゃんと、そのことがわかるようになりました。

これからも精進して私を役立てたいと思います。

2月の算命学講座や個人セッション、チベットヨーガクラスについてのお知らせは今日中にアップする予定です。

なんだか2月1日という日のせいか、私の決意表明みたいになってしまいましたね。(爆)

これからもどうぞよろしくお願いします。

 

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