神様はいいました。
「あんたのだんなさんは幸せ者やなあ。あんたみたいな嫁さんもろて」
神様がそのような言葉をわたしにくださるなんて、
これは私にとって最大級の賛辞です。
神様というのはわたしにとって神様のような人という意味です。
その人は我欲といったものとは無縁の、炭焼き名人です。
私にとって、そのたたずまいのすべてが神さまのような、
仏さまのような、そんな人です。
なのでわたしはその人のことを神様と呼ぶことにしました。
私は今回の和歌山への旅でその神様と初めて出逢いました。
神様は南伊勢に住んでいらっしゃいます。昨日のブログで神島のことについて書きましたが、今回の神島上陸に神様にも来ていただきたいと企画者のSちゃんは誘っていたようですが、翌日の朝までに和歌山に来るのが難しい状況になったとき、これまた神様のお使いのような人が
「僕が迎えに行きましょか?」と、まるで近くのコンビニにアイスでも買いに行くくらいのノリに聞こえるような軽やかさで言ったのでした。
でもそんな軽いノリで言えるようなことではないことはあほなわたしでもわかりました。
和歌山から南伊勢まで車を飛ばしても片道4時間はかかります。
時はすでに夜の9時を過ぎていました。
その人は明日お仕事があるのです。
神島に行くメンバーではないのです。
一人で夜中に車を運転して迎えに行くのは大変だから当然ほかの人も行くことになります。しかも皆さん自然に、当然行くでしょというように。。。
そしてなぜか神様に逢いに行きたくなってしまった?美女も車に乗り込むことになりました。
結局神様のお使い総勢5名が神様をお迎えに行くことになりました。
休みなしで運転しても往復8時間以上はかかる道のりを夜中に5人もの人達がお迎えにいくほどの人ですから、やっぱり神様です。
このことだけでもありえない展開です。
神様を乗せて神様のお使いたちが南伊勢から戻ってきたのは
翌朝の7時半。
(その間わたしはお布団で寝ました←小さな声のつもり)
神様と神様のお使いの人たちですが、
私の目にもとってもお疲れの様子でした。
でも神様はわたしの目の前に座り、「僕は眠らなくてもいい」と講習にでかけるまでいろんなお話をしてくださいました。
わたしはその神様のお顔をみてお話を聞いているだけで幸せな気持ちになります。
神様は、見えないものが見えるようです。(神様ですからね・・(笑))
そしてみな眠ることもなく、そのまま仕事へ、カヤックの講習会へとむかったのです。
翌日の神島行きは中止(延期)になり、残念なことになりましたが
神島にいけなかったからこそ、Sちゃんの家に集った神様と神様のお使いの人たちと過ごした時間は思いがけなくとても濃密な時間になりました。
朝、知ちゃんがいつものようにとても澄んだ美しい声で素敵な歌をうたっているのが聴こえてきました。彼女にとって歌は日々の暮らしの中に自然にあるもので特別なものではありません。
わたしの身体が自然に反応していました。
まるでレクイエムのように心に響いてきた歌がありました。
知ちゃんの歌声は稀有な、神の歌です。
『小さな木の実』 大好きな歌になりました。
https://www.youtube.com/watch?v=eQ3yRX6_bSw
その時、私たちの共通の仲間であるみゆきちゃんがこの世を卒業したとの知らせが・・・
みゆきちゃんに捧げて小さな木の実を知ちゃんが歌い、私が踊りました。
私は踊りといってももちろん踊りを習ったこともないし、勝手に感じるままに身体を動かしているだけの、自称「踊りのようなもの」です。
するとそれを見ていた神様が
「あんたの舞は妖精の舞やな~、羽衣付けて踊ったらええな~」
「祈ってる姿は女神そのものや」
とおっしゃるではありませんか。
ここに書いていてももうこっぱずかしくてたまりません。
私はこれまで人から褒められることがあっても、それを額面通りというかね、100%受け取ることがなかなかできませんでした。
仕事に関しては体験談をいただいたりすることもあり、それに関してはちゃんとちゃんと受け取れます。それは私というものへの直接の褒め言葉ではないからかもしれません。でもわたし自身に対してはね、できなかったんですね。
わたしはそのようなものではございません。本当の私はそんな褒めてもらうようなものではございませんという気持ちがどうしてもどうしてもどこかにあって、うれしいのに、うれしく思う気持ちを抑えてしまう。そんなひねくれた、ねじまがりものです。
これは神さまの言葉だからだったからなおさら受け取れないと頭は思ったのに、
なぜかす~~っとす~~っと、自然にその言葉は私の心の奥にはいってきたのです。
それは神様がすごく自然だったから。自然でピュアだったから。
神様は上の方にいて高みから見下ろしていたのではなく、
神様は私と同じ目線で、そこに、にこにこしてただただいてくれたから。
それからも神様はわたしにとめどなく雨がふるように賛辞を送ってくださったのです。
これでもか!って言わんばかりに。
ここまで言うたら慣れるやろ?と言わんばかりに・・・
そのとき、与えられるばかりの神様からの愛にお返ししたいという気持ちがわいてきました。それは私の奥の奥の奥からくるものです。
なんだかわけがわからないけれど、知ちゃんの歌が素晴らしくて、その声が祈りが私の中にスッコ~ンと入ってきて、神様の言葉がじゅわ~っと沁み入ってきて、私も何かしたくてたまらなくなったのです。
人と人とが奥と奥で出逢うということはひょっとしたらこういう瞬間なのかもしれません。
私は出逢ってしまったんですね。触れてしまったんですね。奥の奥にあるものに。
それは自然と涙がでてきてしまうような瞬間でした。
神様とは一日半を一緒に過ごしただけの、時間にすれば今まで生きてきた人生の中のほんとうにわずかなわずかな時間です。
が、
出逢いというのはますますこういうように時間でなくて密度になっていくのですね。
クンルンの師匠は以前このように言っていました。
よく、誰もみていなくてもお天道さまだけは見ていてくれるという言い方をするけれど、
陰徳というものは天さえも見ていてくれなくても良いというくらいの
気持ちでできる誠意であり心の尽くし方だと。
自分に与えられたものすべてを開花して恩返しすること。
そうだ!!
そのためには、私には価値がありませんだの、受け取れないだの、恥ずかしいだの、と、ほんとうの気持ちをごまかしたり、きれいごとを言っている場合ではないのだ。
これは神様が「神様」を通して私にくださったギフトだ。
神様がオウチに帰られてからも毎日神様はお電話をくださった。
そして毎日毎日、褒めてくださるのだ。
もう参りました!というしかない。
私は120%受け取りました。わかりました。とひれ伏すばかりだ。
その神様の最後の褒め言葉が冒頭の
「あんたのだんなさんは幸せ者やなあ。あんたみたいな嫁さんをもろて」だ。
それは私が料理が上手とか、アイロンがけが上手とか、やりくりが上手とか、そういうことが理由でないことは私が誰よりもわかっている。
神様、ありがとうございます。
素直に、とことん素直に受け取ります。
ようやくようやく、受け取るというこに許可がおりたような気がします。
わたしはほんとうに幸せです。神様に出逢えて。
そして神様のお使いのような素敵な人たちに出逢えて。
その人達のやさしさや奥深さやすばらしさや暖かさに触れることができて。
だから恩返ししますよ。
私のすべてを開花して。
大元へ、大元へ、大元へ・。・。・。・。・。・。・。
そんな気付きが昨日あってね、今日はセルフディスカバリー(自分塾)クラスの日だったんだけどね、
生徒さんのひとりが、来る途中でお花を買いたくなったといって
とっても素敵な花束をもって来てくださった。
ここにも神様のお使いが・・・
なんというギフトだろう!!
神様のすることは心憎いほど粋だね~~~(#^.^#)
29日の田村国晴先生のセルフケアと真琴のチベットヨーガのスペシャルコラボのクラスは満員御礼となっております。
たくさんのお申込みをありがとうございます。
来月のコラボクラスも決まりましたらすぐに日程をあげますね。
5月の真琴のチベットヨーガのクラスは
5月10日(10時半~)
5月25日(14時~)
5月30日(13時半~)
となっております。
ご参加お待ちしております^^
Kan.Golden Charcoal Bowl がですね、以前にもましてパワーアップしております。
どうぞその波動も浴びに来てくださいね。