昨日は多摩川が眼前に見える、とても気持ちの良いお宅にお邪魔してきました^^
絵をみながら、ひととき鑑賞会をしてきました。
私が出会いたかったのはこういう作品だな~と思いました。
一見やさしくてやわらかい色調の中に息づく生命力。
その強さというか命の源のようなものはとてもピュアでシンプルでした。
だからこちらもピュアになれるし、ならざるを得ない。
うそがつけないな~と。。。
日本人は明治以降、西洋の「個」の際立った強さに憧れてそれを求めてきたと思うし、アイデンティティという名のもとに、自分が自分がと、自分を、個人を、立たせることを一生懸命にやってきたようにも思う。
個人主義の西洋に対して、個よりも組織の中の一員であることを意識している日本人。していた、というべきかな・・
最近はそういう人は少なくなっていますので。。
家族や地域や会社や国のために自分の利益を先に取るよりも
見返りを考えずに頑張ってきたたくさんの人たちに日本は支えられてきたんですよね。
日本人の特徴として、良く言われることがありますよね?
集団のなかに埋没している、
自分の意見をはっきり言わない、
イエスかノーかはっきりしない、
個性がない、、、などなどなど。
それがまるで悪いことのように、言われることがよくありますが、
これも個性であって、決して良し悪しではないですよね?
一見そうみえるかもしれないし、そういう一面も確かにあるかもしれないけれど、日本人は私が、私が、とことさらに言わないけれど、
もっと大きなもっと気高いものに生かされていることを
真に知っていたのではないかなあ。
だからこそ、個を際立たようとする必要などなかったし、
自分を道具としてささげてきたのではないかな・・・
そしてそこには大いなるものと一つであると知っている強さが
あったのではないかと思うのです。
八百万の神々
正しいもの、美しいもの、神はひとつ(ひとり)ではなく、
どれも、どの神も佳きものなのである。
どの人も素晴らしければ、どんなことも素晴らしいこと。
ほどほどのすばらしさを現代人の私たちは忘れてしまってね、
ついつい、もっともっとと欲しがるけれど、
ほどほどっていうのは、自分の可能性をあきらめることでも、
この程度で良しとする、ということでもないと思う。
ほどほどの満足っていうと、自分をあきらめることや、
あるいは、中くらいのところで満足しないといけない、もっと欲しいと
思ってはいけない、ということではないと思うんですよね。
ほどほどのすばらしさを知っているか知っていないかということだと思う。
今あるもの、今手にしているものが素晴らしいものであることに
気づいているさまだと思うのです。
そして、自分が手にしたものをすべて自分だけのものにしておくのではなく、周りの人と分かち合う心が、ほどほどをよしとする心だと思うのです。
自分が宇宙の営みのなかの一部であることを昔の日本人は知っていたに違いないのです。
そして時を経て今。
私たちは思い出そうとしているのですね。
そういう和の民族であったことを。
そんなこんなな、時間を過ごしてきましたとさ。
個としてたつ、個性の強い人ももちろん素晴らしいけれど、
そういうひとにはそういうひとの役割があるわけで、
けれど、そうではない、自分の個よりも廻りと協調して
自分が良しとするもののために自分をささげて頑張る人も
また、素晴らしいですよね。
すべての人がイエスノ―をはっきり言って、
積極的で、自分を主張する人ばかりでなくてもいいもんね。
日本人には日本人のすばらしさがあるし、
男性には男性の、女性には女性のすばらしさがあり、
あなたにはあなたのすばらしさがある!!
すごいことをしなくっちゃいけないなんてことはないしね。
働く女性と専業主婦の争いなんて言われるけれど、どっちがいいとか悪いとかない。
あなたのしていることが世間の常識とか、スタンダードと言われることから外れていたとしても、それがあなたのやりたい道ならすればいい。
何も遠慮することはない。
人の顔色をみて、世間の評価を得るために本当の自分をないがしろにするなんて、せっかく生まれてきたのに、あなたの役割をしようと思って生れてきたのに、もったいないです。
億万長者になりたくて身を削って頑張っている人も、
ほどほどで満足している人も、
それが自分の真実であれば問題ない。
シンプルに生きたいと思った昨日でありました。
みなさんはどう思いますか?